生活集

22歳

思考、記憶、記録(20210118)

f:id:oishiiringoo:20210427203634j:plain


恋人と付き合ってから半年くらいの間の写真が、本当に少ない。「一緒にいるのにスマホなんか出してちゃもったいない!思い出に残るから良いの、そっちの方が大事♡」みたいなお花畑思考で、ほとんど撮らなかったから。でも気付いた。記憶なんか簡単に忘れるし、色褪せるし、改竄する。日記を書くためにカメラロール見返して、オッそうだったそうだったこんなことあったわ、となる率の高さよ。たった数日前のことですら想像以上に、なーんにも覚えていない。もちろん、自分の中からその出来事が、完全に“なくなる”わけじゃない。でも何かしら、トリガーがなければきっと思い出すことができない。だから私は記録する。できごとも思考も感情も自分が言ったことさえもどんどん忘れてしまう、そんないきものだけれど、唯一連続性を保つ方法が記録すること、写真や文章。なのでとりあえずできる範囲でぜんぶ、記録する。もったいないじゃんね、せっかく生まれた気持ちや考えが消えてっちゃうの、ってもったいない精神で。

写真は、瞬発力と客観性に利があるね。シャッターを押す一瞬で、ものすごい情報量を保存しておける。私は人の顔を覚えておくのがあまり得意じゃない。数時間ふたりきりで喋っていた人の顔を、帰り道でもう思い出せなくなっているのもザラ。2回目に会って、その人だと判別できるのは半分ぐらい。声の調子や話し方、ジェスチャーの癖、着けてたアクセサリーみたいな、細かいところは覚えてるクセにね(でも実は意外と皆もそんなもんだったりする?)。だから本当は、出会った人たちみんなの顔がちゃんとわかる写真がほしい。みんなの顔、忘れたくない。でも自然に「写真撮ろ!」って言うコミュニケーション能力がない(し盗撮は普通にありえない)から……。ぴえん。

あと、私は遠出したとき風景だけじゃなく、なるべく自分自身も一緒に撮ってもらうようにしている。自分の容姿を客観的に見るのはあまり好きでないけれど、そこに自分が存在したことが、目に見える形であるとやっぱりうれしい。そこに映った私の服やアクセサリーひとつ取っても、それを選択するときにはいろんな気持ちが介在していたはずなんだよ。そっかあ、あの時の私、“こんな”だったかあ、こんな風に見えてたのかあ、ってのは、自分目線じゃわかんないしね。自分も他人も脳内フィルターを通さず見られる、から、ギャップに結構ぎょっとすることもある。

そういえばかなり昔「カメラ女子」なんて言葉が流行り始めた頃、芸人がカメラ女子に「空の写真なんか撮ってもどうせ見返さないだろ!しょうもない!撮ってる自分が好きなだけ!!!」的なこと言って、スタジオもそれな〜!な空気で爆笑しているバラエティー番組のワンシーンを見た。今でも覚えている。私は「カメラ女子」ではなくて、スマホでそれこそ記録のみを目的に写真を撮る程度の人間だけれど、それでも不服に思ったから、覚えてんだろな。今考えると、“(特に若い)女”やその流行をテンプレ化、小ばかにして笑うような文化は今も昔も変わらずあるし、おそらくこれもその1つに過ぎない。けれどとにかく、自分の中にはそれが小さなひっかかりとして残った。でも実際、なにげなく撮った日暮れ、青から赤へのグラデーション、夏の雲、電線のかかった星空、みたいな空の写真ですらたまに見返してノスタルジックな気分に浸れてるから、嘘じゃん見返すじゃんって思うし、しょうもないんかな〜とかちょっと思いつつ撮っといて、やっぱり良かったなってなってる。ひとのこと簡単に腐して笑ってしまえるような人間の方がよっぽどしょうもないし、そんな取るに足らない人間の言ってることなんか、聞く価値マジでないからネ!って、昔の自分に言ってあげたい~。

写真のこといっぱい書いたけど、私が好きな記録手段は言葉、文章の方。文章は、思考・感情の呼び起こしやすさに利があるね。詩や短歌もそうかな。私は短く洗練させてくより、だらだら思考直結で、とりあえず全部そのまま言葉にしてしまうのが好き。で、その過程もできるだけぜんぶ残しておきたい。これもたぶんもったいない精神から。

それから、言葉にするって、目に見えないものに形を与えてく作業じゃない?そこが好き。写真は既に存在する視覚的な情報を写し取るものだけど、思考や感情って、あるかどうか、存在すらあやふやなもの。それをどうにかこうにか、よりうまく表せるように試行錯誤する。楽しい。他人のそれを見るのも、私はとても楽しい。そうやって書いたり話したりしながら、自分でも存在に気づいていなかった感情や思考がまた見つかる、そういうことが多い。から、何でも良いのでまずアウトプットしてみることが大事だと思う。形式はなんでも。私はツイートやメモアプリが多いかな。(1つ問題点は、即時性重視で手当たり次第って感じなのでどこに何を保存してるかイマイチ把握できていないこと。ほんとはもっとちゃんと整理分類したいんだけど。だから最近は書き散らかしたメモをたまに見返してはこうやって、少しまとまった文章に直したりしてる。メモとメモの隙間を埋める言葉を探していたら、またいろいろ新しく思い出したり、考えが思い浮かんだりする。)誰かと、とりとめもなく何時間も話してるのも大好き。

「無理に言葉になんてしないで、感じるままに!」って考え方も、否定はしないよ。震えるほどの感動が言葉にした途端陳腐なものになっちゃうというか、心に言葉が追い付かないというか……、そういうことってあると思う。使ってる言語の枠内でどうしても制限や順序付けが起こっちゃうもんね。昔ゼミで教授に、何かを言葉にすることでこぼれ落ちるもの、無理やり押し込められるものは必ずある、そのある種暴力的な側面も意識しとかなきゃ駄目だよ、ただの誤字が文字通り命取りになることもあるよって話をされた。穏やかな言い方だったけれど、どきっとした。そういう言葉の怖さも、忘れちゃいけない。

でも、私は、それでも一度は言葉にしてみてほしいなって思う。別に完全に言語化できなくてもいいんだよ、しっくりこないならなんかしっくりこないなーのままで、もっと近い表現をまた探せば。1回で言い切る必要はないもんね。いっぱい言葉や表現探せば良いよ。それでも見つからなければ作ってしまっても良いかも(それが伝わるかは別として)。自分でも自分の感情を正しく(より上手に)表現できるとは限らない。あれは「嫌い」じゃなくて「うらやましい」だったなあとか、「恋」じゃなくて「憧れ」だったなあとか、あとからいくらでも変わりうる。その試行錯誤が言語化の醍醐味だと思うし、その連続性を保てるのが記録だよね~って、そういう話だっけ?まあいいか。そんな感じよ。

それと私は、コミュニケーションにおいては、「実際に発された言葉」を重視する。だって言外の感情読むのほんとにできないモン好きなら好きって言ってほしいし嫌いなら中指立てとくぐらいしてくれないと分かんないぽよ~。好きって言われてないのにそれが私の勘違いじゃないってなんで言えるの?と思ってしまう。言葉にしてくれたら、たとえそれが嘘だったとしても「好いてると思われても良い」と相手が思ってることは確実にわかるじゃない?「言わぬことは聞こえぬ」だよ。その人が内心どう思ってようが、"その人が私にどう思われたいか"を尊重するし、実際にとられた言動ベースで評価するよ。根は良い奴とかそんなの知らんからね!同じ理由で、"あの人は「実は」性格悪い"とか暴こうとするのも(実害が出ていない限り)、好きじゃない。表面上だけでも友好的で優しい人は、少なくともそれを維持するコストを私に割いてくれてるんだから、って。だから私は“宣言”の意味も込めて、「好き」や「愛してる」をよく言葉にする。好きな人に、私のこと、「あなたのことを好きな人」とちゃんと認識してほしい!エゴ!です。えへへ。

で、ここまで「記録は良いぞ!」をべらべら綴ってきたが、そうは言っても記録は非可逆圧縮、復元できるのはある程度まで。一瞬一瞬の時間や感情を、切り取って、枠にはめ込む作業だもの。そうやって手元にコレクションしておいて、どうしたってこぼれ落ちた足りない部分(特に感情や思考みたいな、「客観的な事実」が残せない部分)にはたぶん、感傷や願望を混ぜながらふやかして眺めるしかない。それはもうしょうがない。むしろそこが楽しいみたいなとこあるしな!だからみなさん写真パッシャパッシャ撮って軽率に言語化しましょう!記録があるとうれしい!たのしい!ハッピーライフ!!!

ハイ今日はここまで!おわりおわり!